ひきこもりになったきっかけ(その1)

2021年6月26日土曜日

ひきこもり 失敗談 体験談

さて、ブログ開設二つ目の記事に相応しいテーマは何か。


やはり「ひきこもり」の発端か「ゲイ」の発端ということになるだろう。

なんせブログタイトルが、「ゲイが先かひきこもりが先か」なのだから。


でも、どちらかというと「ひきこもり」のことを先に書くべきだろうか。

人生で常に足枷に感じるのは、自分の「ひきこもり」の気質である。










ひきこもりの【原因】と【きっかけ】


人がひきこもりになるには、【原因】と【きっかけ】があると思っている。

私は当事者であって専門家ではないけど、なんとなくそんな風に感じている。


【原因】は、簡単に言うと属性・性格・性質的なものというイメージ。

【きっかけ】は、仕事や学校でのつまずきだったり、環境の変化だったり。

【間接的要因】と【直接的要因】とも言い換えられるかもしれない。

それらが互いに絡み合ってひきこもりになると思っている。


大学選びの失敗


1991年 平成3年 18~19歳


私の場合の「きっかけ」は、大学への進学だった。

自分に向いていない大学に入ってしまった。

私は高校を選ぶのと同じ感覚で大学を選んでしまったのである。


一般的に高校は、よほど強く望む進路がなければ学力で選ぶと思う。

自分の学力で入れる、できるだけレベルの高い学校。

地方では特にそういう傾向ではないだろうか。


私は大学選びも同じだと思っていた。

特に将来なりたいものもなく、勉強したい学問もなく。

だから、自分の学力に合わせて理系の大学・学部を選んだ。


高校三年のときは、学校から帰ると、夕食を挟んで8時間の自宅学習。

大変だった。

大好きなテレビゲームも本体ごと押入れにしまい込んだ。


とにかく、今は苦しくても大学に受かりさえすれば楽ができる。

そう信じていた。










猛勉強の甲斐もあり、第一志望の大学に一発合格。

生まれ育った町を離れ、念願の一人暮らしが始まった。


もう勉強はしなくていい。

今まで勉強に費やした分、四年間遊ぶぞ!

バラ色のキャンパスライフが始まるはずだった。


うーん、バラ色という表現は少々古いかもしれない。

でも、他に何色が現代風なのか思いつかない。

アラフィフだから。



・・・話を元に戻そう。


私は中学生あたりから、大学に対する漠然としたイメージがあった。

何百人と入れる大きな教室で、適当に講義をやり過ごす。

出席さえすれば、居眠りしていても単位がとれるというような。

いや、出席すらせずに、アルバイトに明け暮れるとか。


ところが、私の入った大学はまったく違っていた。

出席はきっちりと毎回とるし、そもそも教室も2~30人程度しか入れない。

授業中に指名されて、テキストを読まされたり、答えを求められたり。

これではサボるどころか、居眠りさえできない。


私の目指していた大学がそんなところだなんて、誰も教えてくれなかった。

教師も親も親戚も。


三者面談でも指摘されなかった。

進学ガイダンスでもそんな話はなかった。


クラスメイトともそんな話はしなかった。

その原因は私にあったのだが・・・。



とにかく自分でもっと調べる必要があったのだろう。

自業自得。

そう言われても仕方ないと思う。


だけど、私は大学が高校までと違うことを知らなかったのだ。

知らなかったのだから、調べもしない。


そもそもうちの家系で大学まで行ったのは母の弟、つまり叔父だけだ。

その叔父も、今でいうところのスポーツ推薦。


だから、誰も普通の大学選びや大学生活をしていないのである。

だから、誰も大学選びのノウハウを教えてくれなかった。


そして大学に行かなくなった


夏休みを前に、朝起きれない日が増えた。

かけておいたはずの目覚ましはなぜか止まっている。


遅刻するのは恥ずかしいので、寝坊した日は休んだ。

行かない日が増えると、行くこと自体が億劫になる。


そして私は大学に行かなくなった。



中退。

そうなることだけが明確だった。


今となれば、他の選択肢があったことも分かる。

最もよかったのは休学することだっただろう。

実際、手続きで大学に行ったときに、薦められたような気もする。


だが、そのときの私は、休んでまた復学なんてことは考えられなかった。

とにかく疲れていたのだ。

あんなに毎日何時間も勉強して入った大学が思っていたものと違った。

次の選択肢を探す気力はもう残っていなかったのである。


母への告白


親にはすぐに言えなかった。

告白したのは、夏休みが終わって数ヶ月経ってからだったと思う。

電話で伝えた。


中退して、何かアルバイトでも見つけると言った。

その場凌ぎの言葉だった。


当然のことながら、中退はしないでくれと言われた。

うちは母一人子一人の家庭である。

物心ついたときには、両親はすでに離婚していた。


母は私によくこう言った。

「父さんからは養育費をもらっていない」

つまり、母は女手一つで私を育て、高校・大学へと進学させたのである。


しかも母には、私が中学生のころから付き合っていた男性がいた。

私が大学に入れば一段落なので、再婚すると決めていたのである。


そんなときに大学中退の話など、厄介事以外のなにものでもないだろう。



伝えた翌日か翌々日くらいに、高校三年のときの担任から電話があった。

母に頼まれて連絡してきたのだ。


その担任は卒業式の日、はなむけとして教室で「水戸黄門」を歌った。










人生楽ありゃ、苦もあるさ。

担任は歌いながら泣いていた。

私はその姿を見て、もらい泣きしそうになるのを堪えるのに必死だった。


ところが、受話器越しの元担任の声には、何一つ感情が乗っていない。

いや、面倒くさそうな響きはあったかもしれない。

どちらにしろ、型通りに引き止める言葉だけが上滑りしていた。


「もう決めたことですから」

私の一言で、通話は終わった。



その2へ続く。



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