ひきこもりになったきっかけ(その2)

2021年7月3日土曜日

ゲイ ひきこもり 失敗談 体験談

1991年 平成3年 18~19歳


そもそも、私の大学生活は最初からうまくいっていなかった。










授業に出ても、消極的な性格から友人が作れない。

一人で動くことに臆病で、年度初めの健康診断にも行かなかった。


サークルなどに入って先輩や同級生と繋がれば違ったかもしれない。

ただ、最初からサークルや部活は探すことすらしなかった。


思い描いていた大学生活と現実のギャップにただただ萎縮していた。


昼夜逆転の生活


大学に行っていないことを母に告げてから、毎日アパートでダラダラした。

昼ごろに起きだし、一日中テレビを見たりゲームをして過ごした。


生活費はすべて母からの仕送り。

ネットも携帯もない時代。

それでも、たしか家賃と合わせて16万円くらいだったと記憶している。


一人暮らしなので、買い物には行く。

主にコンビニや弁当屋、レンタルビデオショップに出かけた。

それぞれの店では最低限の会話しかしない。


食べ物でいうと、セブンイレブンのとりかつ弁当が大好物だった。

それから、なんていう弁当屋か覚えていないけど、ハンバーグカレー弁当。

毎日この二つばかり食べていた。



レンタルビデオショップにも毎日のように通った。

個人でやっている店で、大抵レジにはオーナーらしきおばちゃんがいる。


当時はVHSの時代。

VHS、今の若い人は知らないだろうか。

大きなカセットテープのようなものだ。

カセットテープさえ知らないという説もあるが。


・・・ググってください。



レンタルビデオは、男女物の洋物アダルトビデオが目当てだった。

本当はゲイ物がよかったが、時代的にも地域的にもそんなの置いていない。


アダルトビデオだけでは恥ずかしいので、普通の映画も一緒に借りる。

母が昔、薦めていた作品をいくつか覚えていたので、優先的に選んだ。


鑑賞の順番は、決まって「普通の映画」⇒「アダルトビデオ」。

なぜならアダルトビデオを見終えると、すぐに返却したくなるからだ。

一泊二日の料金を払っているのに、借りたその日に返しに行く。

それで値切ったりは、もちろんしない。


レジのおばちゃんには、おかしな奴だと思われていただろう。

自分でもおかしいと思っていた。

それでも、醒めた頭ではビデオ返却の予定を翌日に回したくないのである。


ある日、借りるときにおばちゃんがいつもと違う話をしてきた。

「〇〇さん(私の名)が借りる映画は名作ばかりだね~」


おかしいと思われているはずではなかったのか?


「え、あ、はい、母が映画好きで・・・」

その日は「慕情」という映画だったことをはっきりと覚えている。

それと、アダルトビデオ3本。


ちなみに「慕情」の内容はまったく覚えていない。

・・・名作を汚すような話で申し訳ありません。


大都市への小旅行


また、一ヶ月に一度はゲイ雑誌を買いに大都市へと遠出した。

片道2時間弱。

わざわざ特急電車に乗って行くのである。


大学のあった町は、一時期ある産業で栄えたが、その後衰退。

ゲイ雑誌を扱うような大きな書店はなかった。


大都市の駅に着くと、脇目も振らず、目的の書店にまっしぐら。

百貨店に入っている書店だ。


お気に入りのゲイ雑誌は2、3種類。

しかし、せっかく特急に乗って来ているからと、他にも数冊購入する。


購入後は、もちろんどこにも寄り道せず、飲食もせず帰路につく。

電車代も合わせ、約一万円の小旅行。

閉塞的な町から出ることは、ちょっとした息抜きになっていた。


もちろん、すべて母の仕送りからの支出だが。




母の電話と襲来


時折母から電話があり、この先どうするのかと聞かれる。

私はアルバイトを探していると、嘘をつく。


学校に行かない以上、働かなければと思っていたことは事実だ。

しかし、今までの人生で一度のアルバイトさえしたことがない。

働くどころか、職に応募することにも、人と話すことにも自信がなかった。



やがて、私は電話に出なくなった。

どうせ出たところで責められるだけなのだ。

それに、嘘をつき続けるのもキツイ。


そうしたら、母は奥の手を使ってきた。

私のアパートに直接来るようになったのだ。


母は生まれ育った町以外に住んだことがない。

高校卒業まで私も住んでいた町。


そこから私の大学の町までは相当離れている。

車の免許を持っていないので、特急電車を使うしかない。

それでも4~5時間くらいはかかる。


だから、頻繁に来るわけではなかった。

しかし、母の襲来は私にとって凄まじいストレスとなっていった。


ついには母と顔を合わせるのも苦痛となった。

私は通常の玄関の鍵に加え、常にチェーンロックをするようにした。


母は合鍵を持っているので、それでドアを開ける。

しかしチェーンロックがかかっている。


チェーンロックとは裏腹なもので。

かかっていれば入れない。

だが、確実に中にいることを証明するものでもある。


母はドアの隙間から私の名を叫び、チャイムを連打し、ドアを叩く。


恐ろしかった。

私は布団を被り、耳を塞ぎ、嵐が過ぎ去るのを待つ。

心拍数と血圧が上がるのが自分でも分かった。


母は決してヒステリーや怒りに任せて何かをするタイプではない。

一人息子に拒絶されたことが悲しく、寂しかったのだろう。


ただ、そのときの私にはそうするしかなかった。


母が一旦引き下がったあと、しばらく息を潜めていた。

帰ったと見せかけて、私が出ていくのを待ち構えているかもしれない。

自宅に戻らず、近くのホテルに泊まって、また明日も来るかもしれない。


私はその日は何も食べず、家にこもっていた。


翌日、電話が鳴った。

もちろん出ない。


まだこの町にいるのだろうか。


予感は的中した。

しばらくすると、前日と同じことが起きたのだ。


叫ぶ声、チャイムの連打、ドアを叩く音。

隣近所に聞こえたらどうするのか。


私はその日の嵐が去ったあと、チャイムの電池を外した。



その3に続く。



【関連記事】

ひきこもりになったきっかけ(その1)

さて、ブログ開設二つ目の記事に相応しいテーマは何か。 やはり「ひきこもり」の発端か「ゲイ」の発端ということになるだろう。 なんせブログタイトルが、「ゲイが先かひきこもりが先か」なのだから。 でも、どちらかというと「ひきこもり」のことを先に書くべきだろうか。 人生で常に足枷に感じる...