母の死(その1)

2021年8月7日土曜日

アラフィフ ひきこもり 体験談

※この記事には私の母の死の状況が記載されています。ご注意ください。


順序として、私のゲイの発端について書く予定でしたが、突如として母の訃報が届いたため、そちらを先に記事にしたいと思います。日本で一般的に忌中とされる四十九日が過ぎていないにもかかわらず記事にするのは、そのときの私の生々しい気持ちを記しおきたかったのと、私自身は無宗教のためです。



訃告


2021年 令和3年 49歳 (現在)


8月1日の夜、叔父と母の暮らす町の警察から電話があった。

母が亡くなったと。


自宅で一人で。

73歳だった。


驚きはなかった。

近いうちにこういう日が来ると思っていた。


悲しみよりも、正直ホッとした気持ちの方が大きかった。

介護や入院が必要になる可能性もあったはずで。

そんな状況になったらどうしようと、ずっと不安だった。


それに、なんといっても。


いつまでも私の足首に嵌められていた足枷。

ひきこもりの原因となった足枷。

私の人生を狂わせた足枷。


それが一つ、外れた。

その気持ちがまず強く心に広がったのである。


脱出


1995年 平成7年 23歳


今から約25年余り前。

私は地元から神奈川に引っ越した。


親や親類のいる町から離れたかったのである。

そこにいる限り、私はいつまでも自由になれないという閉塞感があった。


23歳のときだった。

その年に窓のマークで有名なPCのOSが発売されたのを覚えている。


この時点において、私は地元で一度だけアルバイトを経験していた。

100万円を貯めて上京資金にあてるつもりだった。


紆余曲折があり、最終的には母が全額出してくれたのだが。



母は作業を手伝うと言って引っ越しに同行した。


分かっていたのだ。


今回の別れが、長い別れになると。

もしかしたら今生の別れになると。


だから、心ならずも私は同行を黙認した。

ところが、荷物の整理が終わっても母は帰る様子がない。


6畳の狭い1Kのアパートに二人。


一日……。

二日……。

三日……。


一週間も経ったころ、さすがに私の方から切り出した。

名残惜しそうな背を見送った私は安堵のため息をついた。



途絶


2021年 令和3年 49歳 (現在)


それから母とは会っていない。

26年間。


もちろん何度も帰省を促す電話はあった。

何度も会いに行きたいとの手紙もあった。


当時、母は再婚相手と一緒に住んでいたが、生きがいは私だけだった。

一人息子である私のためだけに生きていた。


しかし私はすべてを拒んだ。

母の予感通り、もう二度と会うことはないと決めていたのだ。


誰にも理解されなくても構わない。

それがそのときの正直な気持ちだったのだから。


ただ一つ心残りがあるとすれば。

ここ最近になって、再会に向けての気持ちが芽生えていたことか。



予感


叔父と警察からの連絡は、いずれも固定電話の留守電に入っていた。


最近は留守電を聞く前に覚悟していたことがあった。

母が亡くなったとの知らせではないかと。


この日は、ほとんど確信に近かった。

録音されたのが日曜の夜9時過ぎだったからだ。


普段、固定電話にかかってくるのは機械音声のアンケートばかり。

そんな時間にそんな電話がかかってくるわけない。



固定電話は私の部屋に設置されている。


この電話機というのが年代物で。

マイクロカセットテープに録音するタイプ。


ひきこもり気質の特性か、私は電話の着信音が怖い。

普段は消音機能を使っている。


しかし、このアナログな電話機。

録音が始まるとカチャッという作動音がする。


二度の録音の際、私はオリンピックのバレーボール競技を見ていた。

その途中で録音開始の音が聞こえた。


最初の録音は一分足らずだったろうか。

消音機能を使用していると、声も流れない。

そしてその数分後に、今度は長めの録音が入った。


バレーボールのセットが終わったタイミングで再生した。


先に叔父。

次いで警察。


予想通りの内容だった。

この時点で、バレーボールの続きを観戦するという選択肢はなくなった。



臨場


私はまず警察に電話することにした。

そのあとで、今後のことを叔父と話した方がいいような気がしたからだ。


警察からの留守電では、表示されている電話番号に折り返してくれと。

だが、年代物の電話機にはそんな機能はなく。


所属の警察署も言ってくれていたので、ネットで調べて電話をかけた。


余談だが、この作業でこの一件が詐欺などではないとの証明になった。

公表されている警察署の番号に電話しているからだ。

相手が提示した番号を鵜呑みにするのは危険な時代である。



担当の刑事は、まるで接客業のような優しい声の男性で。

まず発見状況の説明があった。


自宅玄関先への配食が、翌日そのまま置かれてあったらしい。


母は73歳の高齢に加え、長年うつ病を患っていた。

以前の手紙にそう書いてあった。

もうずいぶん前に再婚相手と死別し、一人になってからだ。


程度にもよるが、うつ病になると様々な意欲が薄れるという。


料理どころか、買い物にもあまり行っていなかったのではないか。

もしかしたら、この配食が一日で唯一の食事だったのかもしれない。

水分補給はどうだったろう。


母が住んでいる町は、今年の猛暑で連日異常なほどの高温を記録。

熱中症などを危惧した配食の配達員が警察に通報したらしい。



家はすべての出入口が施錠されていて。

警察は2階の窓を割って、中に入ったそうだ。


母は玄関を入ったところにある階段の下あたりにいたらしい。

あぐらをかいたような姿勢で、前のめりに頭を床につけて。


エアコンはかかっておらず、死後数日。

加えてうっ血した顔は身近な人が見ても、本人確認ができない状態で。


刑事の話では、身元確認に歯科所見が必要とのこと。

その後、死因の特定をすると。

それで不審死でなければ、遺体の引き渡しに至るということだった。


窓を割って入った関係上、室内の貴重品を預かっていると刑事は言った。

できれば、実子である私に受け取りに来てほしいと。

今までに引き取りで揉めたことが数えきれないくらいあるらしい。


だが私は、叔父に行ってもらうことになるだろうと答えた。


叔父は母と同じ町に住んでいる。

そして善人である。

不誠実とは対極にいる人で、私も全面的に信頼している。



実際的な話として、叔父に任せる方が自然な部分もある。


私が帰省する場合、飛行機を使う必要のある距離であること。

身体障害者のパートナーと同居していて、長く家を空けられないこと。

そして、新型コロナのワクチンをまだ打っていないこと。


もちろん、それらは言い訳に過ぎない。

本当の理由は別にある。


ただただ行きたくないからである。

母の弔いに消極的だからである。

様々な段取りや手続きを成し遂げる自信がないからである。



アラフィフにもなって、恥ずかしい話であることは重々承知している。


だが私は、結婚式にも通夜にも葬式にも出席したことがない。

あらゆる冠婚葬祭や行事を避けてきた人生だ。

例外は叔父の結婚式だが、幼少時なので花束を渡した記憶しかない。


私にはそう、社会性が備わっていないのだ。


しかも母に対し、わだかまりがある。

そのためにほとんど連絡も取らず、会いもしなかったのだから。


わだかまりは母の死を聞いてもなお、一片の氷解も見せないのである。


だから、すべてを叔父にやってもらいたいのである。

弔事も各方面への連絡も相続手続きも、何もかも。



警察との通話を終えた私は、叔父に電話をかけた


続く。