母の死(その3)

2021年8月20日金曜日

アラフィフ ひきこもり 体験談

本記事の主な登場人物は、私の父と父の妹(叔母)です。










2021年 令和3年 49歳 (現在)


8月2日、夕方。


叔父との通話を終えて少し経ったとき、はたと気付いた。

母のことを、父にも知らせた方がいいのではないか。


まがりなりにも、いっとき夫婦だったのだから。


父は母とまったく同じ年齢なので、73歳。

いや、今年の誕生日は過ぎたから74歳だ。


母と父は、私が物心つく前に離婚。

私は母に引き取られた。


だが母のはからいで、高校を卒業するまでに父とは何度か会っている。


クリスマスに二人で映画を見て、プレゼントを買ってもらったり。

父の一人暮らしの家に一人で泊まりに行ったり。

私と母の暮らすアパートに来たり。


今でも父は、母と同じ町に住んでいる。


更には、ちょうど一年ほど前に私は父に会いにも行っている。

三十数年ぶりに。


そのきっかけとなったのは、母からの手紙である。

封筒の中には、父の妹から母に宛てた手紙が同封されていた。


そこには、父が母と私にしたことを後悔していると記されていた。


それを読んで、私は少なからず驚いた。

父にそんな人間らしい心が残っているとは思っていなかったからだ。


私はどうしても父に会わなければならないと思った。

その再会の顛末は、いずれ改めて記事にしようと思っている。


とにかく私が一年前に父に会いに行こうと思った理由。

それは父の妹が母に宛てた手紙だったのだ。


両親は離婚しているが、本来、父の妹は私にとってもう一人の叔母である。

父に会いに行ったあと、叔母とはショートメールを数回やり取りした。


何十年も連絡を取っていなかった父の妹。

父との再会。


途絶えていた繋がりが回復したばかりで。

その約一年後に母が他界するなんて。

なんという巡り合わせだろうか。


そうだ、母のことを父の妹にも私の口から伝えなければ。


父との旅


1984年 昭和59年 12歳


あれは、たしか小学6年生の年末。

父と二人で冬海の叔母夫婦の家に行った。

最初で最後の父との旅行。


これも母のはからいである。


海沿いの町は風が強い。

私といとこたちは、まだ大晦日なのに一緒に凧を揚げることにした。


叔母夫婦の子供は三人。

一番下の子はまだ幼かったので、年長の女の子とその弟と浜へと出た。

年長といっても、私よりも四、五歳下だったように記憶している。


凧は面白いように風に乗って、どんどん舞い上がった。


やがて凧が豆粒のように小さくなったとき。

私は不安に駆られた。


自分の力では、この凧を戻せないかもしれない。


慌てて凧糸を引く。

案の定、凧糸は緑の毛糸の手袋を虚しく滑る。

いとこも一緒に引っ張るが、浜風の強さには敵わない。


それどころか、凧糸はじりじりと少しずつ奪われていくのである。


まずい。

このままでは、凧は飛んでいってしまう。

叔母宅から借りた大事な凧が。


そのとき現れたのが、漁師である叔母の夫だった。

彼は父性の象徴たる力強さで、あっという間に凧を手繰り寄せた。


手元に凧が戻ったとき、凧糸には私の手袋の繊維が絡みついていた。


その夜、叔母の手作り料理がたくさん振る舞われた。

なかでも、その土地名産の貝のフライが本当に美味しかった。

普段一杯のご飯ですら残す私がお代わりをしたくらいなのだ。


私たちは遅くまでトランプや花札をした。

ひそかに役を揃えては、わいわいと盛り上がった。


あとにも先にも、あんな年越しを経験したことはない。


目論見


2021年 令和3年 49歳 (現在)


・・・やはり父と父の妹には伝えておくべきだ。

一年前まで長年に渡って音信不通だったとしても。


だが、私は逡巡した。


叔父がいい顔をしないのではないかと思ったからである。

ここでいう叔父は前記事に出てきた母の弟のこと。


私の社会性のなさを肩代わりして、母の死後の手続きをやってくれている。

叔父はきっと、一連の手続きに口出しされることを嫌うだろう。


私が知る限り、叔父と父の間に交流はない。

そして性格的に、父はこういうことに干渉してくる人ではない。

父の妹は、母の町からは少し離れた場所に住んでいる。


従って、叔父が今回動いてくれていることに横槍が入ることはない。


ただ、もしかしたら父の妹は火葬に参列したいと言うかもしれない。

叔父はそれだけでも難色を示す可能性はある。


どうしようかと思いを巡らしていると、不意にある目論見が芽生えた。

その目論見は、父のためでも父の妹のためでも、叔父のためでもない。


私のための目論見だった。


もしかすると、逆にこれを利用できるのではないか。

私が弔事に出席しなくてもいいという確信を得られるのではないか。

そのための叔父の言質を取ることができるのではないか。


ならば、二人に連絡すると、ぜひとも叔父に伝えなければ。



叔父は、私が父と父の妹へ母の死を知らせることを快諾した。

ただ一つ、さりげなく注文をつけてきた。

私の目論見通り。


「叔父さんが全部やるから、二人には見守ってくれって言ってもらえる?」


やはり叔父は口出しされたくなかったのである。

だから、それを先に牽制してきた。

見守ってくれ、つまり干渉してくるなと。


そして、たしかに言った。

全部やる、と。


これでもう後には引けないはず。

少なくとも、私が地元に戻って弔事を行うことはないだろう。

戻らなくてもできる書類手続き等はやらなければならないとしても。


私の気持ちは相当軽くなった。


目論見というほど謀略じみたことでもないが、言質は取れた。

こんなことをしなくても叔父は全部やってくれたとも思うが。


父の妹


私は早速、父に電話をかけることにした。

だが、出ない。

仕方がないので父は後回しにして、先に父の妹に連絡することに。


父の妹、すなわち叔母はすぐに応答した。

それも、とびきり嬉しそうに。


父から教えてもらった私の番号を、携帯に登録してあると。

画面に私の名が表示され、喜び勇んで電話に出たと。


それから彼女は一方的に捲し立てた。

70歳を超えているはずなのに、張りのある声で。


子供たち(私のいとこ)が仕事で忙しくしていること。

そのうちの一人が孫を連れて帰省していて、うるさいこと。

住んでいる地域が暑すぎて、夜寝られないこと。


「暑すぎて死んじゃう。私、死んじゃってもいい?」


まるで子供のように叔母ははしゃいでいた。

これから母の死を告げるというときに、死んじゃうという冗談で。


叔母はとても残念がった。

ただし、母との交流はそれほどなかったらしい。

たまたま、一年前のあたりに手紙のやり取りがあっただけとのことだった。


心模様


叔母との通話を終えると、再度父に電話をかけた。


「もう赤の他人だからな」


突然の訃報に驚きながらも、父は母のことをそう評した。

父の言葉は、私の予想にたがわぬものだった。


それでも長いこと、私たちは話した。

父の声も心なしか弾んでいた。


私と一年ぶりに話したからか。

それとも普段あまり人と会話しないからか。


父と父の妹には、叔父からの言葉を伝えた。

結局、二人とも今回の件に関わるつもりはないようだった。



私は不思議な心模様だった。


心の距離を感じるのは、私が地元を離れるまで近しかったはずの親類。

逆に親交という意味では、はるかに少ない父と父の妹。

その二人には受け入れられているのである。


もちろん、親族としての所属も責任も不義もまるで違うから当然だが。

それでも私は不思議な心模様だったのだ。



その一方で。


私を含めた誰も、母の死を心からは悲しんでいなかった。

その事実は、私の気持ちを少しばかり暗くさせた。


続く。