ゲイの発端(その1)

2021年10月31日日曜日

LGBT ゲイ ひきこもり

さて、今回は「ゲイ」の発端について書こうと思う。


本来なら、もっと早い段階で記事にする予定だった。

なんせブログタイトルが、「ゲイが先かひきこもりが先か」なのだから。


ところが母の訃報が飛び込んできたため、そちらを優先したのである。



というわけで、私のゲイの発端。

これまたどこから書いていいのか悩むところで。


「ひきこもり」というのは、発端がある程度はっきりしている。


でも、ゲイは。

いろいろある・・らしいので。


らしいというのは、まず自覚の時期が様々というのがあって。


幼少期における男性性の不在


私の場合、女性を性の対象として意識したことが一度もない。

でも、すべてのゲイがそういうわけじゃない。

人によっては、女性経験があったり、結婚後だったり。


じゃあ私は先天的なのかというと、そうとも言いきれず。



以前の記事で触れたが、私は物心がついたときには両親が離婚していた。

母は私を連れて、実家に出戻り。

幼少の時分は、私、母、祖父母、叔父(母の弟)の五人暮らしだった。


ところが、例えば私は祖父や叔父と風呂に入ったことがない。

いつも母と入浴していた記憶しかない。

近所の銭湯に行っても母と一緒に女湯だった。


つまり、小さいころに大人の男の裸を見たことがないのだ。










それに祖父や叔父と個別に遊んだ記憶もあまりない。

叔父の車に乗って家族でドライブに行った程度。


祖父は、自分の子(母、叔父)とさえまともに接していない人で。


仕事は行っていたらしいが、終業後はまっすぐ帰宅したことはなく。

母や叔父が幼いころも家庭を顧みず、遊び回っていたと聞いている。


業を煮やした祖母が「たまには子供たちと遊んでやってほしい」。

そう懇願してようやく。

渋々祖父は、自分の遊び場であるパチンコ屋や雀荘に連れて行ったらしい。


その当時、男性の多くはタバコを吸っていて。

そして今のように禁煙・喫煙が分かれてもいない。


紫煙が濛々と立ち上る場所に、小さい母と叔父は放置されていたそうだ。


そんな人だから、孫の私のことも別に可愛くなかったのだろう。

祖父から愛情を感じたことはなかった。


叔父はと言えば、たしか私が6歳のとき、結婚して家を出た。

当たり前だが、叔父が私の父親代わりをしたことはない。


無理に思い出すとすれば。

髭の剃りあとをゾリゾリと私の顔に擦り付けてきたくらい。


四つん這いになって背中に乗る馬の役や相撲。

そういった遊びの相手はいつも母だった。



幼い時期における、父性や男性性の不在。

私はそのことが自分の性的指向を決定したと思っている。


女性主体の環境がゲイの原因になるとは証明されていないだろう。

同じような境遇でもゲイにならない人だって当然いるのだから。

もちろん、まったく異なる環境からゲイになる人もいる。


「なるもの」か「あるもの」か


っていうか、そもそもゲイって「なるもの」?










このご時世、「ゲイになる原因」という表現すら微妙だ。

まるでゲイになることが悪いことのように捉えられてしまう。

それが自己否定的であり、差別的だと言われてしまうからである。


更に言えば、ゲイの発端を考えること。

それ自体、異性愛が正しく、同性愛が間違っているという考え方。


だって、異性愛者は自分がなぜ異性愛者なのかなんて考えない。


異性愛が先天的か後天的か?

いつから異性愛者なのか?

そんな疑問、誰も持たない。


異性愛者にとって、異性愛はもともとそうで「あるもの」。

だったら、同性愛者だってそう思ってもいいはず。


そんな風に割り切れれば楽なんだろうけど。


やっぱり自然の摂理から外れているのではないかと思ってしまう。

同性同士では子供が作れないわけだし。



それから。


この世には、異性愛者や同性愛者に分類されない人もいるらしい。

ただ、今その人たちに言及するとキリがなくなるので割愛。


私もそれほど理解していないので。


もしかして間違った認識を書いていたら、すみません。

でも、そういう人がいると言うことだけは覚えておいてもらいたい。


自己の存在に対する疑い


ここまで書いてきて、自分で言うのもなんだけど。

なんだか難しい世の中だ。


ただ、こういうことはほとんどのゲイが一度は考えたことがあると思う。

もちろんゲイだけじゃなく、きっと多くのセクシャルマイノリティが。


自己の存在を疑うのは、いつもマイノリティであり弱者なのである。










それが自己肯定感の低さに繋がったり、生きづらさに繋がったり。

そこまで悪くなくても、やはり多くの人にとってはネガティブなもの。


私はと言えば、まさにそれがこのブログのテーマなのである。


人生がうまくいかないのは、ひきこもりの気質のせいなのか。

それともゲイであるということが、ひきこもりの気質を作ったのか。

はたまた他の要因もあってのことか。


・・・行き当たりばったりで書いているくせに、急にテーマと言い張る。


まあ、ゲイに関してはね。

受け入れたのか、受け入れたふりをしているだけなのか。


どちらにしろ今、ここにこうして生きているわけで。

少数派だろうが普通と違おうが、どうしようもないのだから。


小難しい話はこれくらいにして。



教訓。

ゲイであることの自覚は、人と違うということの自覚であった。


あれ?

こんな着地じゃなかったはず。


次の記事に続く・・と思う。