ひきこもり脱出(その4)

2022年8月5日金曜日

アラフィフ ひきこもり ひきこもり脱出 体験談





母と町田

1993~94年 平成5~6年 20~21歳


祖父母の家に居候していると。

他にも避けられないことがあった。


母の訪問。


母は当時、同じ町で再婚相手と二人で暮らしていた。


再婚相手の名は町田(仮名)。


母が45歳くらいで、町田は17歳上なので62歳くらい。

ずんぐりむっくり体型のおじさんだった。


母と町田は、もともと同じ職場の部下と上司。


私が中学生のころから付き合っていて。

私の大学進学という区切りで再婚した。


町田には、死別した前妻との間に子がいたが。

すでに成人し、独り立ち。



母と町田が再婚するまでには。


町田との電話で泣いてすがる母の醜態を目の当たりにしたり。

夜中に二人が全裸でいるところに出くわしたり。

再婚すれば、母にとって姑となる町田の母親とのゴタゴタなど。


紆余曲折とも言えないような。


子としては見たくもない。

聞きたくもない。

大人の腐ったような事情に付き合わされたわけだが。


それはいずれまた別の記事にできればと思う。



さて、母は再婚を機に心底嫌がっていた仕事を辞め。

念願の専業主婦となった。


町田も長年勤めあげた公務員をちょうど定年退職していて。

セカンドライフを楽しむべく自動車の免許を取得。


母はときに一人でバスを乗り継いで。

ときに町田が運転するワゴンに乗って。


私が居候している祖父母の家にやってきた。


住む場所が変われど、私は母とは会いたくなかった。

だが、籠城できる一人暮らしとは違う。


母は祖父母の娘であり、その訪問は防ぎようがないのだから。


しかし、母は毎回私の部屋を訪れるわけではなかった。

階下で祖母としばらく話して帰るだけの日もあった。


母としては、あまり私を刺激しないようにしていたのかもしれない。

とりあえず、元気でいてくれればいいと。


町田の方は、私の部屋に来ることはまったくなかった。


今思うに。

町田と私は絶妙な距離感だった。


母は再婚して彼の戸籍に入ったけど、私は入らず。


そのため父親という位置づけでもなく。

かといって、赤の他人でもない。


彼が私の名を呼ぶときは、下の名前に「くん」付け。

私が彼の名を呼ぶときは、「町田さん」だった。


ステーキ


あれは私が高校生のときだっただろうか。

まだ母と町田が付き合っている段階のころ。


町田が私を外食に連れ出した。


ステーキ屋。

男同士一対一。


私は入ったこともない高級な店で。

見たこともない高級なステーキを食べさせてもらい。


食事の間、二人にはあまり会話はなかったと思う。

あったとしても、学校はどうだとかその程度。


とは言え、重苦しい雰囲気でもなく。


はっきり覚えているのは、町田の二つの言葉。


ナイフとフォークでの食事などしたことのない私。

もちろんフォークの背にライスを乗せて口に運ぶなど。


そこで、それらを持ち替えながら食べてもいいか町田に聞くと。


「全然いいんだ。食べやすいように食べれ」


それが一つ目。


それでも慣れないカトラリーの扱い。

私は途中で肉汁を白いテーブルクロスにこぼしてしまい。


その失敗が恥ずかしくて情けなくて。

ステーキ皿をズラして隠すことにしたのだが。


遅くても我々が店を後にしてから、店員には分かってしまうわけで。


汚したまま黙って帰ったと思われたりするのではないか、とか。

生来の心配性が発動。


いたたまれなくなって、町田に打ち明けると。


「大丈夫だ。どうせクリーニングに出すんだから」


いかにもどうってことないという口ぶりの町田のその一言に。

私は心底ホッとしたのである。



おそらく町田は、母と付き合っていることについて。

そしてゆくゆくは再婚するつもりであることについて。


私の承諾を得るための時間だったのだろう。

あるいは、私との距離を近づけようと。


ただ、彼は計算高い人じゃなかった。

どちらかと言うと、誠実で不器用。


でも。


だからこそ、そういった機会を設けたのだろう。

だからこそ、私に取り入る言葉を使わなかったのだろう。


二人はただ同じものを食べ。

同じ時間を過ごしただけだったのだから。


もしかしたら、その誠実さは無駄だったのかもしれない。

私は母が再婚することに興味がなかった。


中学生の時分から母を疎ましく思い始めた私は。

次第に母を軽蔑するに至り。


いずれ別々に暮らせる日を待ち望んでいたのである。


だから、母が誰と付き合おうと。

その人とどうなろうと構わなかった。



だけど、今になって気付く。


私のこういった、誰かに対する感情の欠落というのは。

母との関係にだけ生じていたものではなかったように思う。


本来、人が他者との間に築く親密な感情。

例えば、クラスメイトとの友情など。


備わっていれば、人生が違ったものになったかもしれない感情が。

私の中に育まれなかった気がするのである。


パークゴルフ


少し脱線してしまったが。

話はひきこもりの居候時代に戻る。


町田は、たまに私を外に連れ出してくれた。


この場合、二人きりというわけではなく。

私と母と町田の三人か、そこに祖母を入れた四人。


目的地のないドライブだったり。

どこかの温泉だったりした。


中でもよく行ったのがパークゴルフ。

ゴルフを単純化した自然の中でのアクティビティである。


私はパークゴルフが特に好きなわけでもなかったのだが。

彼と出かけることで。


もしかしたら、何か得られるかもしれない。

もしかしたら、変われるかもしれない。


そんなきっかけを期待していたのかもしれない。



ある日、こんなことがあった。


母が町田のワゴン車の中で、私に。

そろそろアルバイトでも探したらどうか。

そう言いかけたときのことだ。


町田は、やや強い言葉で母を叱責したのである。



「〇〇くん(私の名)はちゃんと考えてるんだから!

 そんな風に急かさなくていいんだよ!

 人には人のペースがあるんだから!

 〇〇くんには〇〇くんのペースがあるんだから!」



思えば。

母も祖父母も私にあまり就労しろと口うるさく言わなかった。


このときだって、母は私を刺激しないよう言葉を選び。

そこまで私を責めるような雰囲気ではなかった。


それはもしかしたら。


町田がそう言い含めていたからかもしれない。

私の知らないところで。



彼がこの世を去ってから、もう20年近くになる。

母も昨年、鬼籍に入り。


あのとき気付けなかった悔いが今、胸を去来する。


彼のあの言葉が。

彼のあの距離感が。


私の最初のひきこもり脱出を後押しした要因の一つだと。


なのに、私は彼に感謝を伝えることもせず。

いまだ墓参りにすら行くことをしないのである。